丸亀に預けられた遠山の金さんのライバル ― 鳥居耀蔵の意外な晩年

丸亀城 さぬき歴史物語
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江戸時代、時代劇でもおなじみ「遠山の金さん」のライバルとして知られる南町奉行・鳥居耀蔵。
悪代官の代名詞のように扱われる彼ですが、実は失脚後に讃岐・丸亀に預けられ、そこで意外な晩年を送っていました。


江戸で恐れられた「南町奉行」

北町奉行の遠山金四郎(遠山の金さん)に対し、南町奉行を務めたのが鳥居耀蔵です。
しかしこの地位も自らの実力で勝ち取ったわけではなく、前任で江戸庶民から人気があった矢部定謙を讒言で失脚させて得たと言われています。

桜吹雪で有名な遠山の金さん

南町奉行となった耀蔵は、天保の改革を進める老中・水野忠邦の腹心として暗躍。
おとり捜査を駆使し、反対勢力を次々と陥れていきました。

当時、幕府は倹約令や風紀取り締まりを中心とする「天保の改革」を断行していました。
ところが北町奉行・遠山の金さんはこれに批判的な立場を取ります。
耀蔵はこれを「改革の邪魔」とみなし、彼をも失脚に追い込んでしまいます。

  • 先進的な砲術家・高島秋帆を陥れて投獄
  • 天保の改革に反対していた遠山の金さんを失脚させる
  • 庶民人気の奉行・矢部定謙も讒言で失脚に追い込む

その苛烈な手法は庶民から大きな反感を買い、「江戸の三悪人」の一人として恐れられることになりました。
「金毘羅へいやな鳥居を奉納し」という川柳が残されているのも、その悪名の象徴です。


水野忠邦との関係、そして失脚

悪奉行

耀蔵は水野忠邦の手下として権勢を振るいました。
しかし、時が経つとその水野をも裏切って失脚に追い込んでしまいます。
後に復職した水野は耀蔵への恨みを忘れず、逆に彼を失脚に追いやりました。

こうして鳥居耀蔵は江戸を追われ、讃岐・丸亀藩京極家に「お預け」となります。

江戸では「金毘羅へいやな鳥居を奉納し」という川柳が詠まれています


丸亀での「お預け」生活

預けられた場所は現在の丸亀高校のあたりにあった御用屋敷。
昼夜監視つきで外出も許されず、まさに軟禁に近い生活を送りました。
日記には「一年中、誰とも口を利かず」と記されるほど孤独な毎日だったといいます。

丸亀城
丸亀高校正門あたりにあった御用屋敷に幽閉されていたとされる

教養人として慕われた一面

しかし、丸亀での耀蔵は江戸とは違う顔を見せました。

元は林羅山を始祖とする儒学者の生まれで高い教養を持っていたために丸亀藩の藩士たちが教えを請いに訪れたと言い、また屋敷では薬草を育てて漢方を自ら調合して領民の治療も行うなど崇敬されたと言います。

江戸では極悪人とされた男が、丸亀では評判とは違った顔を持って受け入れられていたのです。


善か悪か、一言では語れない人物

明治維新後も生き延びた鳥居耀蔵は、終生西洋文化を嫌い続けたといいます。
ドラマや小説では今なお悪役として描かれますが、その姿は必ずしも一面的ではありません。

  • 陥れられた人々にとっては「極悪人」
  • 丸亀で助けを受けた人々にとっては「善人」
  • 後世の歴史叙述によって「悪人像」が誇張された可能性も考えられる

丸亀に残された足跡をたどると、善人か悪人かでは割り切れない、一人の人間としての鳥居耀蔵の複雑な姿が浮かび上がります。

人物・逸話

参考までにこちらはwikipediaさんの記述になります

同時代人の人物評が残っている。

  • 栗本鋤雲「刑場の犬は死体の肉を食らうとその味が忘れられなくなり、人を見れば噛みつくのでしまいに撲殺される。鳥居のような人物とは刑場の犬のようなものである」
  • 木村芥舟「若いときから才能があったが、西洋の学問を嫌い、洋書を学ぶ者を反逆者として根絶やしにしようとした。天保の改革を推進するためには邪魔者を陰険な手段で追い払った。この点は鳥居にとって大いに惜しむ所である」
  • 勝海舟「残忍酷薄甚しく、各官員の怨府となれりといへども、その豪邁果断信じて疑わず、身をなげうつてかへりみる事なく、後、罪せられて囹圄にある事ほとんど三十年、悔ゆる色なく、老いて益勇。八万子弟中多くかくのごとき人を見ず。亦一丈夫と謂うべき者か」

中略

遠山景元は当時の江戸庶民の人気と同情を集め、遠山=善玉、鳥居=悪玉の図式ができ上がった。ここから、後に講談や小説、映画やテレビドラマで人気を博することになる『遠山の金さん』の素地、及び時代劇における悪役としての鳥居のイメージができ上がったといわれる。